【映画メモ】「犬王」おかわり見てきました

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こんにちは、つたちこです。
久しぶりにはまってしまった「犬王」。2回目の鑑賞に行ってきました。
特典第2弾の脚本家野木亜希子さん作の公式薄い本「幕間」ももらえました。うれしい。
パンフレットも買うぞ、と思ったら売り切れでした。増刷したって聞いたのに……(そして2度目の増刷したと聞きました、タイミング!)。

写真:「犬王」来場者特典第2弾 幕間をゲットしました
特典、第1弾、第2弾ともに手に入れてしまった

(以下ネタバレあります)


さて、2回目なんですが、1回目との間にいろいろ履修して自分なりの解像度を上げてから臨みました。

まず、原作「犬王の巻」を読みました。

作品の背景などは、前回初回を見た直後に監督・原作家・脚本・音楽のみなさんのインタビューなどを色々見ました。
さらに追加された記事たちも読みました。

参考:
『犬王』に詰まった人間が進化するエネルギーの片鱗 湯浅政明の無限の想像力を垣間見る|Real Sound|リアルサウンド 映画部

その後、「平家物語」(原本)の壇ノ浦前後の関係性が高そうな部分の現代語訳を読んだり。

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参考:「鯨」のあたり
平家物語 – 巻第十一・遠矢『その後、源平互ひに命を惜しまず…』 (原文・現代語訳)

現代に続く(世阿弥=藤若がまとめた)能の形式や役・面の話などを読んだり。

参考:
能の諸役|能・世阿弥|文化デジタルライブラリー
能楽をさらに楽しむ「夢幻能」という魅力
世阿弥の業績・夢幻能|能・世阿弥|文化デジタルライブラリー

「複式夢幻能」と犬王の構造については、こちらのツイートも非常に参考になりました。

で、2回目です。
ライブ感を味わいたい気持ちで、センターより前寄りの席で見上げ気味に観ました。大正解。

2度目なので基本的な話は分かっています。
1回目は話を追うのに必死なのといろいろ圧倒されてよくわからなかったところが、とてもクリアになりました。

特に映画冒頭の現代から中世への空間移動のあたりの意味が、よく分かりました。
これがあるから、作品全体がシテ=友有(亡霊)の「複式夢幻能」になるのですね。
私たち観客は「ワキ」として友有の語りを聞くことになり、犬王が600年探し続けた友有をようやく見つけることで成仏につながる。二人が何にも縛られずに自由だったころの姿に戻り、映画が終わると同時に二人の魂が浄化されるのだ。
「見届けようぜ」は、犬王の舞台での活躍を見届ける、という友有の言葉であると同時に、友有の生きざまを見届けるということ!

更にシテの友有の語り(映画本編)の中に、犬王=シテの平家物語(夢幻能)がいくつもあるという、入れ子構造。
ぐおー、すごい構造……!! これが野木脚本パワーなのか。
(原作はあくまで「平家物語 犬王の巻」なので、この現代を絡めた構造は映画オリジナルです)

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初回で「なんでこうなった?」「いきなり急展開」って思ってたところも「あ、ちゃんと説明されてる!」ってなる箇所が何度もありました。
犬王の体の変化もですが、友一・友有の髪の長さで時間経過が表されたりしてた。

そもそもまだまだ「子供」だった二人が出会ってから、活躍するころにはしっかり青年になってる時点で、出会ってからの時間は相当経っているのよね。犬王のお兄ちゃんたちもすっかり青年になっていました。
犬王も友一・友有もいきなり上達して大舞台に立ったわけではなく、そこまでに鍛錬を続けていたということ。
(原作だと、二人の年齢差も10歳くらいある感じだった)
パッと出ていきなり人気が出てあっという間に花火のように終わる、じゃなくて、芸の上達も人気度も、それなりにじわじわと時間がかかってのことなのだな。

各公演ごとの観客の違いも面白かった。
「腕塚」の舞台は河原。手作り感満載の垂れ幕。使っているのも麻縄とわらの粗削りな仕掛けで、観客は庶民(むしろ貧困層に見える)。
「鯨」で清水寺でプロジェクションマッピング的な舞台装置を使って大がかりに。観客に富裕層が現れて貴族も気になる存在になり。
「竜中将」は足利義満といえばの金閣寺。上品で優美で洗練された舞台装置と衣装、そして観客は将軍・貴族・関係者のみ。
どんどんのし上がっていく様が見えるようになっている。

友一に「どこか似てるんだ、そう俺たちに」とうたわれてた犬王なのに、そして貧困層はおそらく最初の犬王ムーブメントを作ったファンなのに、犬王の舞台は見られなくなっていくのね。(そういう歌だから、友有は歌うなと言われたわけですが)
あるいは「竜中将」以降は、見ても「俺たちが好きだったあの犬王ではない」ってなっちゃうのかもしれない。悲しい。

この辺も1度目は歌と音、ダンスに圧倒されてそれどころじゃなかったので、歌を聴きながらもその背景にちゃんと目が行けてよかった。

最後に自分の歌と踊りをなくして、ただ美しく舞うだけになってしまった犬王。
呪いをすべて浄化した美しい直面なのに表情もなくなってしまった。それこそ「能面」のように。
素顔の醜さを隠して仮面をつけていたころのほうが、よほど生き生きして表情豊かに見えた。
桜の舞う中の犬王の静かな舞は、とても切なかった。ここは前回よりもぐっときました。

他にも細かく「これってこういうこと!」「それか!」みたいな小さな気づきやら発見やらがいっぱいあって、ものすごくおなか一杯になりました。
谷一さんと友魚・友一の関係も、とても好き……。谷一さんは途中から何も言わなくなってしまったけど、自分の子のように思って可愛がったり心配したりしていたのかもしれないなあ。

ただ、そういういろんな情報を自分が得て映画を観なおして「なるほど、そういうことか」と納得したり発見したりすることには新鮮味があったものの、初回に見た時の、あの圧倒的な音楽の渦にぐるぐる巻きこまれてしまうような感覚は薄れてしまいました。
2度目だから、知ってるから、仕方ないのだけど。
なんだかさみしい。
もう一回頭からっぽにして「なんだかわからないけど、すごい!!」っていう感じになってみたいなあ。

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この記事を書いた人

つたちこ

フリーランスのwebディレクター。基本方針は、健康的においしい食べ物とお酒を楽しむこと。できるだけご機嫌で生きていきたい。
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