弔電は遺族のためのものじゃなく、私のためのものだった

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先日、友人が亡くなったと連絡がありました。ようやく少し気持ちが落ち着いてきました。
またしても同世代の(しかも年下の)知り合いをなくしてしまった。
コロナではないです。約1年強の闘病の末、でした。
まだ早すぎる、と思う一方、私がそういう知らせが入ってくる年になったのかもしれない、とも思う。

このご時世ということもあり、お身内だけの家族葬をされるとのこと。
周りに相談したら、家族葬の場合は、お花や香典を送るのはやめておいたほうがいいそうです。

たしかに、冠婚葬祭って一般的に「半返し」ルールがあるので、送ると逆にご家族に手間を取らせてしまう可能性がある。
こちらはそんなのいらなくても、もらった側は気を使わざるを得ない。

弔電なら、相手の負担にならないのでよしとされるとのこと。
勧めに従って、弔電を打ちました。

なんて書こう、と頭の中でぐるぐるしながら、用意されているいくつかの弔電文例を参考に読む。
何か違和感があって改めてよく読むと、なるほど、これは亡くなった本人に向けたものではなく、ご遺族にあてた言葉なのですね。

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そりゃそうか。当たり前だ。
だって本人はもういないのだから、本人宛の内容を書いても読めない。
読むのは葬儀をするご遺族だ。

そういえば参列は何度もしているけど、弔電を打つのは初めてかもしれない(会社で業務上、とかはあったけど、個人的にという意味で)。

彼のご家族は、きっと私のことなんか知らないだろう。
弔電なんて、あわただしくてしばらくは(あるいはずっと)読まないかもしれない。

いろいろ考えて、文例をもとにしながら彼の名前を加え、内容を少し変えて、送ることにしました。
ご家族が「誰?」と困惑しないよう、元同僚であることもわかるようにして。

翌日、電報を届けた、という知らせがメールで届きました。
どういう状況かはわからないけど、とりあえず、気持ちを伝えられたのかな。

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と思ったのですが、その後なんだかモヤモヤとしてきました。

彼はもういない。
そして彼の家族は私を知らない。
そんな人物からの弔電、受け取った側はどうなんだろう?
そんな知り合いがいたんだね、でおしまい、じゃない?
こんな人にも悼まれる彼でよかった、と思ってもらえるならいいのかもしれないけど。

結局私がなにかしたくて、でも何もできなくて、その気持ちを収めるために一方的に送りつけたに過ぎないのでは。
自己満足か。

何かするなら、彼がいるうちに、彼本人にもっと何かすべきだった。伝えたい言葉は彼に伝えるべきだった。

お葬式は生きてる人のためのものだ、と父が亡くなったときに母が言ったのを覚えてます。
今回も同じだなあ。

残された人間にできるのは、お通夜の席で彼のことを思い出して語り合うことなのかも。
今回はそのお通夜すら参加できないわけですが。
彼のことを知っている人たちと、彼のことを話したいなあ。

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この記事を書いた人

つたちこ

フリーランスのwebディレクター。基本方針は、健康的においしい食べ物とお酒を楽しむこと。できるだけご機嫌で生きていきたい。
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